私と金子堅太郎|前田内科医院|上尾市

私と金子堅太郎

私と金子堅太郎

司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説をご存知でしょうか。テレビの大型時代ドラマでも取り上げられたのでご存知の方も多いと思います。
この小説に出てくる金子堅太郎は日露戦争のあとのポーツマス条約で大きな働きをします。

実はこの金子堅太郎は私の遠い親戚です。私の母の血筋の上杉家と金子家が親戚同士で、明治・大正時代には上杉家で祭礼があれば金子家から使いのものが来ていたようです。私の母方の曽祖母の従兄にあたるのが金子堅太郎と祖母(故人)から聞かされています。

偶然なのですが、金子堅太郎が生まれた家はかつて私が幼少時に育った福岡市の自宅からそう遠くない場所でした。私は福岡市でも西側の鳥飼というところに小学校4年生まで暮らしたのですが、金子の生家も同じ鳥飼だったのです。(現在は福岡市中央区鳥飼)
金子と私の誕生年はちょうど100年違います。そこにも何か因縁めいたものを感じるのは考えすぎでしょうか。

金子堅太郎は明治維新期(明治4年)にアメリカに渡った「岩倉使節団」の一員でした。使節団には岩倉具視や大久保利通、伊藤博文などの政治家に交じって多くの留学生がいましたが、まだ10代後半の青年だった金子はその中の一人でした。のちに同志社大学を作った新島襄や津田塾大学を作った津田うめらもこの中の一員でした。

金子堅太郎は当初は英語をマスターするためボストンの小中学校から入り直し、めきめき頭角を現して級長などを務めながら飛び級をして最終的にはハーバード大学のロー・スクールに進みます。ハーバードでは得意の英語力を生かして弁論部にいたそうです。そしてその英語での弁舌が後のポーツマス条約に大いに役立つ事になります。日露戦争終結の時、まだアメリカの世論は白人の国であるロシアに同情的でアジアの新興国日本は軽視されていました。そこで金子堅太郎はニューヨークのカーネギーホールをはじめ、全米各地で講演会を開きアメリカ世論を日本に有利に導いたとされています。また日露間の調停役に立った米国大統領セオドア・ルーズベルトが金子のハーバード大学時代の同窓生であったことも日本に有利に働きました。(詳細は「坂の上の雲」をお読みください。)

この他金子の業績として有名なのは伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治らと共に明治憲法の草案を作ったこと、地元九州では八幡製鉄所(のちの新日鉄)や九州帝国大学(現在の九州大学)を誘致したこと、藩校で自身も学んだ修猷館を復興(現在の修猷館高校)したことなども挙げられます。その他大船の観音像の計画にも携わったり、日本法律学校(現在の日本大学)の初代校長に就任したり、専修大学創立に携わったり、日米友好のための米友協会・日米協会の初代会長を務めたり、明治時代の人気俳優で同郷の川上音二郎と貞奴の仲人を引き受けたりもしたようです。政治家としては伊藤博文政権で農商務大臣や法務大臣を歴任、枢密顧問官も務めています。また面白いエピソードとしてはアメリカ留学時代にベル博士が発明した電話を日本人として初めて使ったという話も伝えられています。

直系ではありませんが、自分の血筋に時代を先取りした、この優れた人物がいたことは大きな誇りです。金子堅太郎の血筋という名に恥じぬようにしなければ・・・と考えると身が引き締まる思いです。

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